JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
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Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
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… 静けさや 壁にしみ入る 子の声音 …
永らく里帰りしていた双子が帰っていった。
全く同じ条件で生まれた女児が、どのような生育過程を見せ、また二人の間に何か神秘的な連携でもあるのか興味深かった。
もうすぐ一歳になろうとするが、互いの存在をどう意識しているのだろうか。
これから長い人生において、おそらく、この世に自分の分身のような存在がいることを当然のこととして認識していくだろう。むしろ双子ではない、一人しかいないことを孤独なこととして捉えるのかもしれない。
双子の精神構造を研究すれば何かが見えてこないだろうか。 全く同時にスタートを切った二人だが、持って生まれた気質の違いのようなものは発達のベースとして遺っていくのだろうか。
観察していて感じたのは、先に運動能力を獲得したほうが、より積極的な主導権を握ることだった。さきに寝返りが出来るようになったほうが姿勢の自由度と多様な視界を得られ、先にハイハイができるようになったほうが行動範囲が広がるのだから世界観が変わるだろう。
リードする方は表情にも多様性が現れ、要求レベルも変わってくる。取り残されたほうは消極的な態度でいるしかない。
そのことを見ていると心身の発達というが、まず身体能力が発達し、それに心の発達がついてくるのではないだろうか。こと積極性という観点では明らかに因果関係があるように見えた。まだ直立歩行の段階までは見られなかったが、その段階ではさらに劇的な変化がみられるのではないだろうか。 約一年という短期間のうちに、まるで人類の進化のミニチュアを見た想いがした。
もうひとつはお互いの性格というものの相関関係である。一方が大泣きして何かを要求すると、片方は自分の同じ要求を取り下げるような感じがした。まるで提供できる側の総量がわかっているように、そこには微妙なバランスというものがあるようだ。 もちろん危機的な状況、例えばヒゲのおじさんが入ってきたとかいうときは二人揃って大泣きするが、平和裏の状況では片方の動きにどこかリンクしているのだ。二人のあいだにはすでに社会とでもいえるようなものがある。
このことは大人の人間関係にも当てはまる気がする、こと性格というものは、何かの対象にむけて機能するものだから、相手によって変化するだろう。持って生まれた基盤はあるが、成長段階において、どんな人に出合い、どんな環境に置かれるかは、性格形成に多大な影響がある。
私は子供時代、非常に内向的で両親に手をやかした。体育が極端に嫌いで、なにをやってもダメだった。運動会といったら親の前で駆けっこでビリになるのだから最悪の日だった。 積極的で元気がいい人はたいがい運動神経がいい。球技で活躍できればクラスのなかでヒーローになれる。私の消極性はひとえに体育の苦手さが起因していたと思っている。
そんな私を救ってくれたのはバイクだった。飛行機や機械が好きだった私は心臓ではなくエンジンで動くものに別世界を感じた。自分の心臓には自信はないが反動としてエンジンというものを崇拝した。好きなものに乗るという意識からかバイクだけは人並みに乗れ、速い人にも付いていけた。「オレ、できるじゃんか」そう思えたものがバイクだった。バイクに乗る時だけは胸を張り、カッコつけることができた。バイクは私の人世の恩人である、それは職業にもなり、今があるのもそのおかげだ。 しかし、そのバイクが私に要求したのは学業の成績だった。バイクに洗脳されるまでは、まあまあで親に期待もさせたが、バイクが頭の中に侵入し、テストの前でも改造プランや乗り方のヒントがひらめいたりするとすっかり占領されてしまった。結果として先生も驚くほどの急降下をしてしまったのだ。
気は心からという言葉がある、その心は身体からきていると思う、歩くだけで理由もなく気が晴れたりするし、ストレッチで気分が変わったりする。
私に運動能力があったらどういう人生になったろうか。自分より先にハイハイができ、自由に動きまわるのを指をくわえて見ている双子の片方を見るにつけ、「ああ、俺はいつもああだった」、と苦笑してしまった。
執筆者: kazama
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