JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
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一の倉といっても倉庫の話しではなく、谷川岳の一の倉沢のことです。 最近は目立たなくなりましたが、一頃のこの山の悪役ぶりは印象深いものがありました。世界中の山で遭難者を一番多く出しているのはエベレストでもK2でもなく、標高二千メートルにも満たないこの山であり、しかも八百名以上というダントツのレコードホルダーなのです。
その要因は上越国境という位置による気象条件の複雑さ、一時的に過熱した登山ブーム、首都圏に比較的近いことなどですが、何といってもこの山に一の倉という悪絶な谷があることが最大の理由でしょう。
その存在は私がまだ小学生だった頃、新聞の社会面によってセンセーショナルに世の中に知らされました。
二人の優秀なクライマーが墜落し、ザイルに宙ずりになった、即死は免れたものの救助作業は極度に難しく、鍛えられた精神力もやがて息絶えた。やむなく自衛隊による銃撃でザイルを切断し遺体を収容したのです。
私は今でも、新聞の報道写真の構図を覚えています。隊員のヘルメット、小銃と機関銃のむこうの陰惨な壁。そして宙ずりの遺体。
その凄惨な事件は小学生の私にも山の底知れぬ恐ろしさを植えつけました。その舞台となった一の倉という響きはなんとも重苦しく感じられたものです。
今、この谷の出合に立とうと思ったら簡単なことです、一寸狭いけれど舗装された車道が伸びていて、一歩も歩かずにそこまでいけるのです。
行楽シーズンなどには家族連れや若者のグループ等が楽しそうに過ごし、この谷から流れ出る清冽な水を飲んだりしています。しかしこの水が、昭和初期からの人もいるという、今も数知れぬ行方不明者の遺体を知っているのかと思うと考えてしまいます。この水は谷の奥の分厚い万年雪の下から流れて来ます。誰もその深いクレバスの底を覗いた人はいないのです。
まだ若い私が一の倉沢を初めて見たのは丁度今頃の季節、三月半ばでした。ピッケル、アイゼンに身を固め、先輩の森永さんと共に一の倉を目指しました。
しかし条例により、この時期は登山禁止です。私達は、一の倉の壁に取付くわけではないのだから,と勝手に理由をつけて登っていきました。
無人の登山指導センターに行方不明者の写真が貼ってあります、一ヶ月ほど前、一の倉方面に向かったまま戻らないというのです。私と同じぐらいの年格好、登山の時の写真なのでしょう、チェックのシャツを着て微笑んでいます。そう見るからでしょうが、その笑顔はどこか寂しそうです。
一ヶ月も経った今、生きている筈もないが、ひょっとして、という思いが脳裏をかすめます。他人の私がそうなのですから肉親にしてみれば、もしかして、に総てを託しているでしょう。 生存の望みは無いといわれても、それでも夜毎、息子はどこかでうずくまり飢えと寒さに耐えているのではないか、と思うのではないでしょうか、山で死ぬことの何と罪なことでしょう。
一の倉までの道は夏ならば車でアッという間です。しかしこの時期、車道は総て雪に埋まり、所によってはスリップしたら湯桧曽川まで一直線の斜面もあり、気の抜けない状態になるのです。雪崩そうな斜面をヒヤヒヤしながら通過すると案の定、対岸の斜面に底雪崩が発生し、バリバリと木をなぎ倒していきます、私達は息をのんでその様子を見つめました。あんなのがこちら側で起きたら___、しかしこういう時、「引き返そう」とは中々言えないものです。
私達は黙りがちになって歩き続けました。やがて視界が開けるとマチガ沢の出合です。そこには新雪雪崩で吹き飛ばされたという小屋の板塀の一部が、高い木の上に引っ掛かっていました。そのマチガ沢の隣の沢が一の倉です。
山の鼻を回り込むと、それは予想外の仰角で現れました。隣のマチガ沢とは比較にならず、のしかかるような仰角です。
私達二人だけの眼前に展開する一の倉沢、あまりに急峻な故、雪をよせつけないスラブ、いりくんだ無数のルンゼ、三方を塞ぐ圧倒的な壁は際限なく上に伸び、やがてスッポリと雲に飲み込まれています。 白と灰色のこの大ホールを前に私達は何故か離れ離れになったまま、声もありません。
私はこの静寂のなかにザイル銃撃の様子を思いました。この一の倉に報道陣を含めると千人を越える人が集まったそうです、その中で親の思いはどうだったでしょうか。千発を越えたという銃撃の音はこの暗い谷に何度も何度もこだましたのでしょうか、、、。
ふと、谷の奥に何か赤いものが動きました。誰かいるのか?と目を凝らしますが錯覚だったのか、二度とそれは見えませんでした。
写真を撮ることを忘れていたのに気付き、二眼レフのファインダーを覗いていると、遠くで「オーイ」という声がしたような気がしました。顔を上げ、谷の奥に目をこらし耳をすましました。しかし風の音だったのでしょう。
数百人の命を呑んだ一の倉はいま、雪をまとい灰色に沈み、時間が止まったように静まり返っています。ここで生きているのは私達二人だけ、自分の心音さえ聞こえるような静けさ、死と対比された生の見える所、この凄絶なほど美しい谷はやはり墓場なのです。
それから二ヶ月が経った五月の晴れた日、森永さんから電話が入りました。撮影のため再び一の倉を訪れ、昨晩は谷の出合で泊まり、いま土合まで戻ったところだというのです。 よくもまあ、あんな所で泊まる気になるものだと思いました。予科練出身の森永さんは実体のないものなど恐れません。 森永さんはおもむろに口を開きました。
「風間さん、実は彼がいたんですよ」
彼というのが一の倉へ出掛けたきり行方不明になった登山者であることはすぐに解りました。なんと、彼は生きていたと言うのでしょうか?、私は思わず「どうやって?」と言いかけました。しかしすぐにその言葉を呑み込みました。 私達が三月に立っていた処から直ぐ上の雪面に彼の肘が見えていたのです。当然のことながら、やはり彼はダメだったのでした。
写真の中から少し淋しげな微笑を見せていた彼は、あの日、一の倉を前にして立ち尽くしていた私達のすぐ近くの雪の下で眠っていたのです。
私はあの時、かすかに動いた赤いものと、声のような風の音を思いました。雪崩の季節の珍しい二人の訪問者に発見してもらいたかったのでしょうか。
しかしそれから更に2ヶ月の孤独な夜をすごさなければならなかった。そして五月、彼は再びここを訪れた森永さんによって発見されたのです。そのことは同じ趣味をもった私達の、せめてもの手向けになったと思うのです。
私はそれからも何度か一の倉を訪れました、家族や友人などに、この谷を見せたかったからです。リフトで天神峠に上り、夏の尾根道の岩の上を歩いて見ました。晴れているのに妙に足元が滑ります、 この辺りまでは観光客が押し寄せ、岩が磨耗してツルツルになっていることもありますが、この山の岩質にも、多くの遭難を引き起こす秘密が隠されている様な気がしてなりませんでした。
梅雨の季節、友人と一の倉の出合に立ちました、谷は雨にけぶり、恐竜のような肌を見せ、そのなかに白い糸のような滝を幾筋もかけています。それは陰湿なこの岸壁の本性であり、沢とよばれる由縁なのです。
友人は、ふと呟きました「ああ、俺もここを登ってみたい」
、、私は思わず顔を見てしまいました。彼は岩登りは勿論、登山にも無縁だからです。
それは意外なことでした。 見るものを引き込んでしまうその力とはなんでしょう。俗っぽい言い方をすれば、この谷の奥から、ここに魅せられた数百人の魂が呼ぶのでしょうか?。しかしそれが魔性の谷と言われる由縁なのだとしても、私にはそれがとりわけ陰惨な話だとは思いません。むしろ、そんな情念に満ちた谷だからこそ、ここは格別に美しい場所だと思うのです。その妖しい美しさが、世界的に類のない多くの遭難者を引き寄せたと思えてなりません。
完璧とも思える壁の構成は比類ない立体感を生み、自然の大伽藍の様相を呈しています。そこからは壮大な音楽が聞こえてくるような気がするのです。
( F ) 挿絵は鵜沼一郎氏のものです
執筆者: kazama
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