JOURNAL SKIN
by : DIGIHOUND L.L.C.
〒658-0001
Higashinada, Kobe, Hyogo JAPAN
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歴然としたその日があった人と、なんとなく、という人もいるだろう。
私は18歳のとき、育った山梨を後にして上京した日になる。
親に買ってもらった背広を(まだスーツとは言わなかった)着て生家を後にした。
10分ほどかかる坂道を歩いて下り、バス停に向かう途中、母の声に振り向くと母が坂を駆けてきた、私が忘れた腕時計を握らせると、「振り向くんじゃないよ」といってくるりと向きを変え、母は背を丸めて坂を駆け上がっていった。 母はむしろ自分にそう言ってるようだった。
バスを待つあいだ、ぐるりと周囲の山を見渡して、お別れをした。
山あいを東京に向かう電車のなかで、何度も坂を駆け上がってゆく母の姿が脳裏にうかんだ。
私はいまでも、母のいちばん印象的な姿といったらそれである、そしていちばん恩愛を感ずるのも、息子が家を出てゆく寂しさに打ち勝とうというような、その母の後ろ姿である。
東京での赴任地は教育期間としての全寮制の学校だった。朝から晩まで集団で厳格な規律を学ぶ日々であり、気を休める時はトイレの中と眠る時だけだった。宿舎は二段ベットでその僅かなスペースだけが個人の空間だった。私の上段には福島出身の親しくなった先輩がいた。
ある晩、その先輩が、なんとなく忍び泣いてるような気配が感じられた。用があるふりをして立ち上がると「わりい、読んじゃった、ちょっとまいった」 といって私の日記を返してきた。
私は高校の頃から日記を付けていた。そこに巣立ちの日の母のことを一生忘れまいと書いておいたのだ。悪ふざけと興味半分でそれを盗み読みしていた先輩が、そのくだりをよんでもらい泣きした、という訳だった。
先輩の母親は福島に独り暮らしということだった。
やがて私も親になり、三人の子供の巣立ちを味わった。
自分が出て行くより、出て行かれるほうが想いがあるものだなあと思った。出て行く方は新天地の暮らしがあり、寂しさを忙殺してくれる。出て行かれた方はポッカリと空いた空間がなんともたまらない。
しかしそれもこれも結婚や就職といったおめでたい事の副産物である。
親になって、その悲哀を感ずるのは子供と別れるような段階になってからである。その頃になってから初めて親の気持ちが分かるのだ。
しかし、たいがいその頃になると親はもういないことが多い。
それが昔から繰り返されてきたのだろう
執筆者: kazama
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