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2014年04月04日 13時31分 | カテゴリー: 総合

桜の毒気

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   まだ静岡の単身赴任の今頃の朝、会社の正門前の桜が咲いた。

その時ふと、郷里にいる晩年の父のことを想った。

もしやこの桜が見納めか、なんて想っていないだろうか、、、

そんな気になってはっとしたことがあった。

   父は実際に次の桜を待たず、開けて1月の大寒の朝にこの世を去った。

この花にはそういうところがある、刺すように何かを迫り、鋭利な刃先を突きつけられるような感じがする。

   桜の花はあっという間に散って葉桜になる。次の桜まではまた一年を待たねばならない。交通事故や病気にもならず、果たして一年を無事に送れるだろうか、、、ふとそんな気になる。   まして晩年を過ごす人の心に、この花の刹那的な潔さは華やかさを越えて、むしろきついものではないだろうか。

   若い時は憧れたが、潔く散るというのは簡単に出来ることではない。そこに日本人の理想像を重ねるのは、いささか荷が重いように思う。

   そしてその美意識の危険さは必ず、かっての大戦に結びつく、特攻機に「桜花」と名づけたことに当時は抵抗感はなかったのだろうか。

   風林火山という大河ドラマに、信玄の父で暴君と言われた信虎の酒乱を描いたシーンがあった。

春の宵に酩酊し目の据わった信虎が、桜の老木に縛り付けた侍女の苦悶を肴に、ひとり杯を重ねるというものだった。信虎の狂気は侍女を切るのではないかと怖れながら、私はその陰惨な美に引きこまれた。

美というものはむしろ退廃のなかにある。そしてその完璧な構図の主役は信虎を越えて、桜の老木であったように思う。

   桜の木の下には屍体が埋まっている、、、誰かがそう言った、そんな妖しい狂気がこの花にはある。

その妖気の下で屈託なく花見の宴を繰り広げる人たち、そのコントラストもまた、春の風物詩として魅力的なものである。

   しかしこう書いてみて、はたと思うのは、桜にはなんの意図もなく、ただそこに咲いているだけという事実である。

執筆者: kazama

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