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2023年04月01日 20時40分 | カテゴリー: 総合

桜の下の 菊と刀

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( 80年前と現代の普遍性 )

「アメリカが全力で戦った国の中で、日本人ほど気心の知れない相手はなかった」
この本の書き出しにはそうある。そのために女性の文化人類学者のルース・ベネディクトが当時の戦時情報局から敵国日本を知るための研究課題として与えられたのがこの本の元になった。
日本が開戦にあたり敵国に対し、このような研究をしたろうか、鬼畜米英などという言葉の印象しかない。

 べネディクトは私が生まれた年に61歳で没しているから相当の古い本である。
「菊と刀」というタイトルは若い時から、いろんな場面で聞いていたがつい読まずにここまで来た。
いまさらこんな古典的日本人論を読んだところで時代は変わっていて、その変貌ぶりを知るぐらいの気持ちだった。
そのタイトルからして米国人から見たら狂気に見えるだろう武士道精神が書かれていると想像した。武士道とは潔さ、ひいてはいかに死ぬかを説いて、それを美化した戦意高揚から諸々の悲劇を産んだ。
しかし武士道には殆ど触れておらず、専ら一般市民の価値観やら行動様式が記述されている。
またそれが戦後75年を経て案外にも基本的骨格は現代の日本人にも存分に当てはまることに驚き,この本が著者の意に反して長きにわたり読まれていることが理解できた。

ついに来日を果たせなかった著者がこれだけの見識をなぜ得ることができたのか不思議だが、ものごとは外からみないと分からない,内側からは見えてこない、ということではないだろうか。
描かれている一貫したトーンが日本人の組織や社会への帰属意識であり忠誠心の高さである。
立派な日本人像を描くならば個人を犠牲にしてまで組織や社会のために尽くすことで「滅私奉公」という言葉がある。その精神は一貫して日本社会にあり続け、日本人の「頑張りかた」の指標である気がする。
結果としてそれが日本社会に秩序を産み、よく言われた均質で安定した労働力であり行儀の良さであり治安の良さに繋がっている。それは誇らしい日本社会の姿だという評価を自らしてきた。

「 please help yourself 」

 一方で外国人の挨拶であり、もてなしの言葉に「please help yourself」とか「as you like」とかいって直訳すれば「あなた自身を助けなさい」とか「あなたの好きになさい」となる。「神は自らを助くる者を助く」のように他人や組織を当てにするな、みたいなのもある。総じて先ずは個人ありきという感じがする。
そんな価値観の視点から見る日本には、組織の先に尊重される個人が見えない、という違和感があるらしい。日本人は慣れているからそう違和感はないが、言われてみればそこから過労死という日本独自の問題が最近になって提起されてきた。また過去の典型とすれば忠臣蔵のような物語が美談として暮れの風物詩として扱われ、これは私にも違和感があった。
その滅私奉公の究極として特攻隊があって、これを呑みこむしかなかった社会の重圧は恐るべきプロセスだったと言える。今日でも財務省理財局長の証言や、組織を保つために死という手段しかない構造がいまだ社会の頂点にある。
 見てくれは近代国家の体をなしてはいるが、ムラ社会的な日本社会の基本構造はベネディクトの観た日本とそう変わっていないようだ。
 滅私奉公という道徳規範が、こと管理者にとってどれだけ都合よくやりやすい体質だったろうか。その観点から逆に個人の尊重というテーマが厳然とある欧米の管理者の難しさが想像される。過労死をさせてしまうような管理者が欧米社会では通用しないだろうことが懸念される。
 そういう意味で戦後民主主義に転じた日本社会が、個人の尊重というところまで至っていない、というか、そのような成熟を目指しているのかどうか。。。なんとなく全体主義が嵩じているような気配さえある。

( 恥の文化 / 罪の文化 )

 この本の重要なワードとして「恥の文化」というのがある。対して欧米は「罪の文化」となる。
恥をかきたくない、という気持ちは非常に強くて日本人が欧米人よりシャイなことにそこは符合する。
 恥というのは多分に他人を意識してのことであって他人が居なければ行動がかわることもある。公私の使い分けとか建前上は、というのがそれだろう。それが日本人がわかりずらいと言われる所以なのかもしれない。
対して罪というなら泥棒とかいうことではなく、恥と対比させれば他人というより心の問題であり、自分のなかでそれをどう評価するかという色彩が強い。たとえ外的に罪を犯さなくても、例えば他人の出世を妬んだ、なんてことも罪として意識され懺悔の対象になる。
 ここでも恥が世間や社会への意識としてあるのに対して、罪は個人のなかにその基準がある。
 極めて印象的だったのは「日本の家庭は社会から子供を守る存在になっていない」という一文だった。
このことのイメージは分からないが、日本では子供を社会へ適合させるための教育の場所、ではあっても社会から子供を守るという場所という認識は薄い。もし子供が社会から逃げてきたら叱咤激励して体よく追い返すのではないか。。社会に適合しさえすれば、その組織や福祉の仕組みが子供の身分を保証し、守ってくれるだろうと思う親が大半ではないだろうか。そのことが組織や社会への忠誠を尽くすことの基本構造になっている。
「家庭が社会から子どもを守る」というのは他人や組織をあてにするな、ということと通じているのだろうか。終身雇用のような、組織に生涯を委ねるような観念とは真逆なものだと思う。更にそれを飛躍すれば、自分の身は自分で護るという銃社会の思想と結びついているのかもしれない。

( 般若心経と私 )

 この本で触れているわけではないが、日本のこのような恥の文化なり滅私奉公の背景に、宗教も関与している気がする。
悟りとか無我の境地、色即是空の空とか。。それもみなあるがままを受け入れ、我欲を捨てよ、という方向性である。これもうがった見方をすれば権力や管理者にとって実に都合がよさそうである。。。
とはいうものの私も我欲を捨てたい境地であるが、しかしそれは残り少ない老人の境地であり、死を受け入れるための悟りへの願望でもある。
大雑把にいえば日本の宗教は諦観にみちていて老人には非常にフィットするが、これからアクティブに生きていかねばならない若者のパワーに寄与するだろうかという疑問がある。さらに私見を言えば色相是空とか無とか時間の概念などは大好きだし、科学の未発達の時代に直感的にこの世の成り立ちや存在、認識論を捉えたことはすごい。しかし今は物理学や数学、最近では素粒子力学の確率論、また哲学と同じであって必ずしも宗教である必要はなくなってきた。まあ科学からアプローチするか宗教からアプローチするかという好みの問題ではあるが。。。

 以上、ざっと読んでみて、時代を超えた予想外の普遍性があり、つい光文社の古典新訳版を買ってしまった なかなか物が減らない(笑)

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 2022/4/27追記
『菊と刀』を読んでから私も四歳の齢を重ねた(^^)
その後ルース,ベネディクトなる女性が,日本の運命にどれだけ関わったかに驚いた。戦中の1944年に日本の占領政策を決める40余名の学者などのチーフが彼女だったこと。その検討から軍部を除いたのがすごい。軍部の方針は天皇の処刑だったから運命が別れた。ベネディクトは難聴,鬱のうえ,てんかん持ちだったという。ドストエフスキーも癲癇だったというが、もしや知性と関係あるのだろうか。そんなハンデがマイノリティや少数民族への想いの所以という。日本の占領にあたり米国一色に染めてはいけない民族主義。そこには小泉八雲(ラフカディオ,ハーン)の影響があったという。
権力者マッカーサーの副官であるボナ,フェラーズ准将も八雲とベネディクトに感化され、意見具申をしたという。
マッカーサーが天皇との会見にあたり,全ての責任を負う覚悟に,国家元首はかくあるべしと感銘したのも日本の運命をかえたのではないか。
 こちらから仕掛けた戦争の無条降伏としては願ってもない学者の良識に恵まれた。
そんな日本の稀有な降伏の概念をウクライナに当てはめ降伏を勧告するのは早計ではないだろうか。
ましてウクライナは侵攻を受けた側であり,ロシアの民主的な統治を想像するのは難しい。

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執筆者: kazama

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