栖原 暁(東京大学国際センター教授)
2年ほど前に、クラスで日本人学生にある問いを投げかけた。外国人留学生が、パーティーで初めて出会った日本人と挨拶を交わしたところ、「日本語がお上手ですねえ」と言われたとして、これについてどう考えるかをグループで議論してもらったのである。議論の結果を聞いたところ、日本人としてごく自然なものとして好意的に受け止めた者が多数を占めた。「わざわざ日本語を勉強してくれているのだから感謝の意味を込めたいい対応と考えるのではないか」、「日本語の勉強を励ますほめ言葉と受け止めてくれるのではないか」「私もアメリカに行ってアメリカ人から、英語がお上手ですねえ、と言われたらうれしい」などというのが彼らの意見だった。
この学生達に、外国人が集まる場所を紹介するなどして、実際に外国人留学生とコミュニケーションをして来ることを課題として出したところ、何人かの学生から興味深いレポートが提出されてきた。留学生との会話の中で、この「日本語が上手ですねえ」という言葉を思わず使ってしまったと、レポートの中で告白した学生が8名いた。そのうち6名が相手の外国人から手ひどい反発を受けたとしている。一人の学生は「日本人がかんたんな日本語しか言えない人にも誉めるのはすごく不思議。誉めない方がいい」と忠告を受けた。ある外国人は、顔をゆがめて、「嘘をついている」言い、また他の者は、険しい表情で「そんな言葉は聞きたくない。いつも日本人はそういう」と言って、怒り出した、という。「あなたも日本語、うまいですね」と、またか、という表情であしらわれた学生もいた。
先日たまたま留学生支援団体主催の講演会があり、休日でもあったので聴きに出かけた。講演者は旧知の元国費留学生で、卒業後も帰国せず日本に定住している。現在は大学の講師を務める傍ら、地域の外国人支援活動に協力したり、祖国の発展のためにNGOを立ち上げるなど活発に活動を行っている才媛である。日本で小説も数冊書いている。その淀みのない日本語での講演の中で、自身の日本留学時代の進学にまつわる回顧談が出てきた。
彼女が文科省(当時は文部省、以下同じ)招聘の国費留学生として来日したのは1974年のことである。当時日本の大学の学部に入学するために来日した国費留学生は、まず東京外国語大学付属日本語学校(現・東京外国語大学留学生センター)で一年間日本語を集中的に勉強した後、希望の大学に進学した。ところが、その前年から文科省は受け入れの規則を改め、文化系の進学希望者については東京外国語大学に設けられていた「特設日本語科」に入学する道しか用意していなかった。しかもそこは留学生だけが学ぶ特殊な学科であったため、7人の文系志望の留学生達は、他の大学の経済学部や教育学部などの文系学部に入学し、日本人学生と一緒に学びたいと主張したのである。7人の留学生達の強い意志は、アジア文化会館を中心とした関係者のサポートを得て、当時の永井道雄文相の特別の計らいを引き出し、結局全員が希望の学部に進学できるようになった。ことの顛末を簡略にすればこんな事件で、当時の新聞紙上を賑わせもした事件でもあった。
この事件で象徴的だったのは、当時の文科省係官や受け入れの日本語学校関係者が、この7人の留学生の主張に対してとった当初の対応であった。留学生の学力(日本語力)が低いことを理由に、日本人学生と一緒では授業についていけないのは目に見えている、として反対したのである。外国人に対するこうした日本人の思いは、実は彼らに限らず、日本人一般に通じる思いでもあっただろう。外国人が日本語力を日本人と同じように身につけるのは難しいのではないか、であるがゆえに文系の専門分野で日本人学生と一緒に学ぶ「学力」はないのではないかという思いである。そしてそれらは、現代の日本の若者たちの心からもなお完全には消え去ってはいないのかもしれない。
この7人の留学生のうち上述の講演者以外にも大学院に進学し、卒業後は日本に定住し、専門を活かして日本と出身国とのまさに架橋的な役割を果たしている者もいる。当時の彼らの選択が真剣で適切ものであったことを証明したことになろう。
日本が戦後留学生を受け入れ始めたのは、1954年に文科省が「国費外国人留学生招致制度」を発足させてからである。この制度では文科省が渡航費から授業料、生活費、帰国旅費等の一切を支給する。これを国費留学生と呼ぶのに対して、主に自費で留学する外国人学生を私費留学生と呼んでいる。今手元にある資料からたどることができるもっとも旧い年度の統計によると、1973年度5月1日現在で5,241人の外国人留学生が日本の大学に在籍していた。国費留学生774人(15%)と私費留学生4,467人(85%)とから成り、自費で来日した私費留学生が当時から圧倒的に多かった。さらに全体の8割近くがアジア諸国の出身者であった。
そして、先の文科省の方針にもかかわらず、全体の53.2%に当たる1,283人が文系を専攻していた。この中でも、実は人文系が1,152人と社会系の1,087人を上回り、これに教育(131人)、芸術(104人)が続く。これに対して理系専攻者は、工学を中心に2,349人で44.8%と半分に満たなかった。
種別 | 1973年度 人(%) | 2001年度 人(%) | |
---|---|---|---|
文系
|
国費 | 313 | 3,185 |
私費 | 2,474 | 45,919 | |
小計 |
2,787 (53.2%) | 49,104 (62.4%) | |
理系
|
国費 | 461 | 5,128 |
私費 | 1,888 | 14,872 | |
小計 |
2,349 (44.8%) | 20,000 (25.4%) | |
ほか
|
国費 | 0 | 860 |
私費 | 105 | 8,845 | |
小計 |
105 (2.0%) | 9,705 (12.3%) | |
合計 |
5,241 (100%) | 78,812 (100.1%) |
それから30年近くが経過しようとしている。1983年には、21世紀初頭までに日本で学ぶ留学生を欧米先進国並みに10万人までに増やそうという「留学生十万人計画」も打ち出され、2001年で在日留学生数は73年当時の約15倍の7万8千人にまで達した。そして、アジア出身(91.6%)の私費留学生(86.7%)を中心とする構図は一層進展し、専攻分野の構成についてみれば文化系専攻者の比率が更に拡大しているのである。
「留学生文学賞」を発意するきっかけになった詩文集『懐情の原形』(英治出版、2000年)も−もちろん文学という芸術作品は文化系専攻者の専売特許ではないにしろ− 上述の先輩留学生たちの努力の積み重ねの中から生み出された果実といえるのではないだろうか。著者である中国内モンゴル自治区出身の留学生ボヤンヒシグ氏は、私費留学生として1992年に来日し、日本語学校を経て法政大学の文学研究科に入学した。他の中国人私費留学生と同様に、国からの仕送りもなく、アルバイトに頼りながらの留学生活であった。日本語も、直接会って話す限り、ごく普通の留学生が話す日本語であり、特別流暢なわけではない。その彼から、日本と、モンゴルに広がる草原を見下ろすような広大な宇宙のなかで自由に、そしてダイナミックに遊ぶ日本語の詩文が生み出されるとはなかなか想像しにくいだろう。われわれは、外国人の日本語能力というものを、いわゆるネイティヴ・スピーカーの常識的基準から見すぎてきたのでないか。
2000年に募集したボヤン賞の選考委員の一人は、集まってきた作品群を読みながら、「日本語が不安定に揺れ動いている」ところに創造性があると指摘した。この選考で選ばれた中国人留学生田原氏はどちらかというと口下手で、外国人相手の「日本語教育者」から見れば、おそらくは、どう見ても「日本語がお上手」な人ではないだろう。にもかかわらず受賞した彼の詩の一つを紹介しよう。
「日本の梅雨」
一
梅干し好きの日本人は梅の樹によじ登って
青梅を揺り落とす
梅の実の雨粒であるかのように
ボトボトひっきりなしに落下するのである
二
湿った普段着のように梅雨は
裸の島々をそっと被う
三
びしょ濡れにされるのを渇望する島々
梅の花びらに埋葬されるのを渇望する島々
傘の下でときめきながら
浪漫的な叫びをあげるのである
四
流れるように移動する傘は
雨粒のように多く
日本人の手の中
傘は雨を浴びて開くきのこ
その半分以上は毒きのこの色
五
梅雨の湿気も届かない所には
大抵 たっぷりと塩漬けにされた梅干しが並べられ
紅いそれはまるで島々のしょっぱい涙
高値で出荷されるのである
六
梅干しは梅雨の内に干し上がることは殆どなく
梅雨も又梅干しが干し上がった後に明けることは滅多にない
梅干しの青春は一つの季節の内に殆ど失われるのである
その皮の艶は生気のない影となり
柔らかな壁の中へ倒れ込む
硬い種をがっちり包んでいる
七
梅雨が去った後、梅干しの硬い種は
天の外から飛んできた隕石
金物ゴミバケツの中で音を立てる
ところで、最近日本経済の長引く停滞を打ち破ろうと、留学生出身者にも目が向き始めている。日本の若者たちにはない彼らのエネルギーやオリジナリティーを活かして創造的な技術者や起業家を育成し、日本経済の活性化に結び付けようというアイディアのようだ。やや遅きに失しているとはいえ大いに推進すべきプランではある。ただし、このようなプランを実現するためなによりも必要なものは、実は自由な時間と空間である。ボヤンヒシグ氏が、『懐情の原形』を生み出すために最も必要としたのがこれであった。そして日本で外国人がもっとも得にくいものでもある。
氏は、大学院卒業後、1年間の在留を希望した。しかし、学業を終えた留学生が日本で在留を継続するのは、現在の日本の入国管理の規則では簡単なことではない。会社に就職するなどの厳しい条件をクリアする必要がある。たとえこれをクリアしたとしても、日本の企業社会に入ったばかりの若者にとって自分のための「自由」を確保するのは至難であろう。ボヤンヒシグ氏は、困り果て、師事していた現代詩人荒川洋治氏を頼り、つてをたどってその関係者に相談した。それらの人々の協力と努力が、彼の希望を何とか実現すると同時に彼の文学を結実させる場、つまり日本における「自由な時間と空間」を提供し得たのである。もし、これが1年のみならず後数年確保されていれば、さらに多くの創造的作品を生み出すことができたかもしれない。
独創的な技術や起業も同様な面があろう。そんな意味で、日本の大学を卒業した留学生に対して、分野を問わず3年程度の在留を認め自由な活動の場を提供してもいいのではないか、というやや大胆な考えを私は持っている。他の先進国に比べて多くのバリアを持つ日本社会で大学に入学し卒業し得た学生ならば、日本語はもとより日本での生活に十分慣れているはずである。何の心配があろうというのか。心配や不安よりも、国際化が否応なく進展する日本社会の中で、かれらは日本での生活に慣れずに苦しんでいる外国人と日本社会の間に立つ緩衝剤としての役割さえ果たしうる人々であり、学業を終えたからといってすぐに国に帰してしまうには、むしろ惜しい人材ともいえるのでないのか。
今日本に必要なのは、技術者や起業家ばかりではないだろう。もし、『懐情の原形』に続く外国人による日本語文学が次々に生み出されていくとすれば、日本文学の世界が質的に広がり、経済の活性化とは別 の意味で日本社会を、日本人の文化とそして心をより豊かに、また懐を広く深くしていくであろう。そんなことを夢見ながら、賛同者の手弁当と手作りで「留学生文学賞」はスタートしている。
(本稿は“財団法人 日本学会事務センター刊 SCIENTIA 24号(2002年12月発行)”に掲載されたものです)
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