留学生文学賞誕生のきっかけとなったボヤンヒシグ(宝音 賀希格)さん、第一回受賞者の田原(ティエン・ユアン)さん、受賞者で海外在住のシリン・ネザマフィさんら留学生文学賞関係者が参加する、というので取材に行って参りました。以下、そのご報告です。(ししろう記)
このシンポは研究者と留学生・外国人日本語作家の交流を通じて「日本語で書くー文学制作の喜びと苦しみ」をテーマに、近年の日本語文学の発展を展望するというものでした。
京都市西京区の国際日本文化研究センターにある会場は、京都らしい和風を強調した長い廊下を通り、中庭の中央にある重厚な防音トビラを開けるとそこは結婚式場かと見まごう会議場。ただ、京都駅からは結構不便で、アサイチに新幹線でかけつけ、タクシーでようやく間に合いました。
9時ちょうどにシンポ開始。午前中が研究会、午後が座談会、という構成。
第一部のトップバッターとして、「留学生文学賞委員会」の審査委員で、いわば代表格でもある栖原暁氏(東大留学生センター教授)が登壇。留学生文学賞の設立と発展を通して、留学生をどのように受け入れていくか、日本が抱えている問題点を明らかにした。
アカデミックな雰囲気には似つかわしくない、谷中時代の檸檬屋がスクリーンに映し出され、主人の住枝清高氏をはじめ、文人、ジャーナリストが多い、とはいうものの、要するに酔っ払いが集まる一風変わった居酒屋の風景が次々と紹介され栖原氏の解説がはじまる。
「この居酒屋へ詩人の荒川洋治氏に師事していたボヤンヒシグ氏が、在留資格延長で無情な法律の壁に悩んで相談に訪れたことからはじまります。これを聞いて憤慨し在留延長のために奔走する一方、ボヤン氏に対して、日本に留学中に体験したことや思ったことを日本語で書いてみたらどうかと勧めました。酔っ払いだから無責任なんですね(爆笑)。常連客の義侠心も手伝い、滞在の継続はなんとか実現しそうになったところで、ボヤン氏が一気に書き上げた原稿を持参したんですが、すばらしくできがよかった。これを読んで感動した常連客がお金を出し合って基金を作り、詩文集『懐情の原形ーナランへの置き手紙ー』を出版した」
「日本で学ぶ留学生の中にはこんな素晴らしい作品を書くことのできる人材がいるのだから、他にも隠れた人材が多数いるに違いない。留学生に文学作品の創作を奨励して、日本で苦労している留学生を元気づけようじゃないかと誰かが、やはり酒の勢いで言いだし(爆笑)、酔客達の戯れ言からボヤン賞がはじまりました。これがのちの『留学生文学賞』です」
「募集してみると、私の予想に反して、意欲的な作品が多数集まった。これまで留学生の作文を沢山読んできたのだが根本的に違っていた。送付されてきた原稿は表現力に拙さがあるものの、本心から書きたくて書いた、いわば、日本人が文学作品などを書く時の目線と同じ高さのものであった。留学生の日本語を本心では見下していた自分に気づかされた」
「留学生文学賞は、当初、詩人の荒川洋治氏、作家の宮崎学氏らが中心となり始まったのだが、やがてボランティア・グループ留学生相談室代表の福島みち子氏、第1回受賞者である田原氏、評論家の呉智英氏や詩人で作家の辻井喬氏に加わって貰い、さらに多様な面からも見ていただこうと、漫画家の西原理恵子氏、今は病気療養中で参加できないが作詞家の吉岡治氏など多彩な人材も加わっていただいた。みなすべてボランティアです。勿論、ポスター・作品集、web製作から関係する事務局の仕事もそうです」
次に過去の受賞者と受賞作を紹介。
現在詩人として、また谷川俊太郎、辻井喬詩集の翻訳家として活躍している田原氏や、昨年芥川賞候補にノミネートされたシリン・ネザマフィー氏の活躍を通して、ますます「留学生文学賞」が注目されている現状を話した。
続いて、留学生相談をとおして、日本の留学生政策に触れ、「現在、在日留学生が12万人を超えている。政府の、外国人を高度人材として受け入れを促進する方針もあり、益々増加していくことが予想されている。これらの異なる文化を背景に持ち、異なる言語を母語とする人たちをどのように受け入れていくかは、現在、日本の大きな課題である。『留学生文学賞』に応募される作品はこうした日本が抱えている問題点も浮き彫りにしている」
『留学生文学賞』は一人の留学生との出会いが生み出した小さな賞であるが、この賞が日本と日本人がその文化や言語の裾野を広げ、外国人が対等の仲間として受け入れることのできる質の高い多文化社会を構築する上で、多少とも役立つのではないかという淡い期待も、今は併せ持つに至っている」(拍手)
質問に移り、トゥンマン武井典子氏(スウェーデン在住、ヨーテボリ大学、著書「北欧とバルト諸国の言語」=写真右)から「大学、企業などの留学生受け入れ状況について」質問があった。
続いての研究発表では牧野成一氏(アメリカ在住、プリンストン大学東洋学科教授 = 写真右)「日本語作家は日本語をいかに異化し、多様化しているかーリービ英雄の文学のケース。スタディー」と題して、日本、中国を舞台にした作品を書いているリービ英雄の小説に焦点をあて、彼のナラティヴの媒体である日本語をそのバイリンガル性、視覚性、極限のシンタックスという三つの点に絞って分析。彼がいかに日本語を異化しているのか、そしてそれがいかに日本語の多様性を生む契機になっているか考察された。
このあと、コーヒーブレイクに入り、遠方からの参加も多く、旧交を温めたり、名刺交換する姿も見られた。15 名のパネラー、そしてオブザーバー 40名が周りを囲む会議形式。各専門分野から貴重な話が聞けるとあって、留学生も多数参加していた。
その一人、研究生だという北京大学の馬さんは「日本のナショナリズムを研究しているが、研究のため、しょっちゅう作文は書いている。作家になる能力も、自信もないが日本語の難しさは痛感している。同じ漢字圏だから簡単に思われるかもしれないが、シンタックスという面からは必ずしも中国語とは似ていない。中国語を母国語とする中国出身の作家にはその辺、創作するときにどれほど難しさを感じ、克服されたのか興味がある」と話してくれた。
3番手の研究発表は、谷口幸代氏(名古屋市立大学大学院・人間文化研究科准教授 = 写真左)「楊逸の文学におけるハイブリッド性」。芥川賞作家の楊逸氏の文学の魅力を検討。古くは中国語の影響を受けて発達した日本語が、彼女の作品の中で再び中国語と出会い、新しい表現の可能性が切り拓かれた。書き手が自分の母語ではない言語で執筆した場合に生まれる異質で刺激的な日本語と中国語のハイブリッド性にあるとして、その魅力と意義を分析した。
最後にシンポジウムを企画した郭 南燕(日文研・海外研究交流室 准教授 = 写真右下)氏が「日本語日本文化によって広がる想像力と創造性」と題して発表。
日本語作家数名の創作動機、日本語の使い方、日本文化に関する洞察を分析。外国の人々が日本語をもって文学創作をすることは、取りも直さず、『日本人=日本語=日本民族=日本文化』という構図を崩壊させ、日本を島国から解放して、世界につなぎ、日本現代文学を豊穣にすることにもなっている、と意義を述べた。
話の中ではリービ英雄の「はじめて耳に入った日本語の声と、目に触れた仮名混じりの文字群は特に美しかった」、田原の「いつも日本語はきわめてロマンチックで詩的な言語」「日本語の多元性と独特な言語空間はこんなところに由来しているのだろう」を取り上げ、作家は日本語の魅力をどう感じたか、そしてボヤンヒシグにとっての日本語などが言及された。
郭氏は「ボヤンヒシグは『日本語は「勉強しやすいというのも入門するときのことだけ』『片仮名、平仮名、漢字、外来語、敬語…、気が遠くなるほどの難しさ』と書いているが、「転々とアルバイトをしている内に、居酒屋でも結構いろいろなことを学び」、「俗語、隠語、日本人の酒の飲み方、魚の名前と味等々」を、『この身で覚えた』という経験を持っている」と指摘。
さらに「シリン・ネザマフィの『サラム』は日本のよい面と悪い面を見ているだけではなく、観察者自身に対しても容赦のない批判を行っている」と語り、読んでいて涙が出たという『サラム』のクライマックス部分を紹介した。
「ただ一つ言えるのは、絶望と悲しみで詰まった、息さえしづらいほどの空気が重いこの部屋には、ボランティアとかけ離れている人間、一人がいるということだ。彼女と会った一分一秒のためにお金をもらっていたその人は、今この瞬間彼女のことを心配していると言えるのだろうか。この瞬間の時給も後で請求するというのに。こんな私がレイラに告げる言葉があるのだろうか。無意識にだんだん熱くなっていく」
朗読しながら郭氏が涙ぐむシーンもあり「読んでいるとまた涙が出てしまいますので、先に進みます」と笑いをさそった。
昼食休憩に入り、用意されたどの部屋もサロン化していた。
ボヤンヒシグ氏は現在、北京でモンゴル関連の出版社に勤務しており、今回は残念ながらシンポジウムが終わったらすぐ帰国するという。私が檸檬屋常連組とわかると「檸檬屋!懐かしいですね、今は新宿に移ったんですか。住枝さん元気かな。今は日本人とほとんど会わないから、日本語も随分忘れた。日本に来たのは 7年振りで午前中は日本語を聞き取るのに時間がかかった。今度は少し長く、また日本に来ます」と話した。
午後の部に移り、ボヤンヒシグ氏はじめ、留学生文学賞でおなじみの、田原氏、シリン・ネザマフィ氏、他に楊 天曦氏(弘前大学人文学部講師・小説『海辺来信』著者)による「作家たちの座談会『日本語による文学制作の経験と展望』をテーマに創作の動機、日本語で書く苦しみや喜びが披露された。
「研究機関で話をするのははじめてで緊張しています。日本語で物を書く行為について、浅い経験ですけど、詩人にとって、詩を書くことは基本的に難しいことです。なぜ、日本語で詩を書きはじめたかというと、賞金のためです。『留学生文学賞』があったからです(笑い)。『留学生文学賞』に応募したきっかけは、友人からの手紙があって、「あんた日本語で詩を書いたら、何十万円かもらえるかも知れない。」と言われ、誘いに乗り応募しました。最初ボヤンという有名な作家の賞かと思いました。留学生の名前だと知ってびっくりしました。幸い入賞して何十万円かもらいました」。
「影響を受けた最も大きなのは谷川俊太郎さんの詩です。谷川さんの詩に導かれて詩の世界に入ったと思う。もし彼の詩を翻訳していなかったら、積極的に日本語で詩を書かなかったと思う。翻訳を通して、中国にはないもの。やわらかいものは平仮名で表現する。やはり日本語はロマンチックな言語です。
読者から手紙をもらいました。『あなたの詩を読んで明治時代の文人達の匂いを思い出す』と。それは無意識のうちに自分の肉体の中で形成されたものだと思う。もう一つ、選考委員としての経験では、私はどんな言語に関しても、書いた人の意気込み、意識が大事だと思う。」
「もともと10代の頃からストーリーを書くのがすきでした。両親に読んでもらって「面白いね、」って言われるのが好きだった。12,3歳の頃から作家になりたいと思い、主にエッセイを書いていた。でも、たぶん40、50歳を過ぎてから作家になるだろうなというイメージでした。日本に来た時に、最初言葉が通じない、もっと上手く伝えたい。いっぱいしゃべっているのになぜ、分かってもらえないんだろう。失礼な意味はないのに失礼に当たっているケースなど、よくしゃべる方で、いっぱいしゃべっているのに通じないということを引きずっていた。」
「大学に国際会館があって、週二回、1〜2時間の日本語のコースがあった。一番上級コースに入れてもらえて、ほとんど毎日のように2年ほど通っていた。教科書の短いストーリーが面白かった。日本の教科書の堅苦しいイメージとはかけ離れてて、相撲の話とか。「私も書きたいな、ちょっと面白い話を書けば人は読んでくれるんじゃないか、」と思った。同級生に書いたものを見せたところ、「ここが違う、どこが違う」と赤ペンを入れられ、もう見せないと思ったんです。もうちょっと柔らかく言ってくれそうな別の学生に話をした。コテコテの関西人の人で、何枚か見せてたら「面白い」って言ってくれて、1週間くらいしたら、そこにマンガが出来上がっていて、それがとても面白く、話が盛り上がり、先生が来て、先生も「面白い」と言ってくれた。
今から考えたら何がそんなに面白かったのか。よく書けたなと思うくらい。すごい勇気づけられ、「実は小説書きたいんだよね」って話したら、あまり赤ペンを入れずに余裕をもって見てくれた。その友達に何でも見せるようになり、留学生文学大賞にも、応募することになったんです。」
「今は少し余裕を持てるようになったんですけど、昔は『どう思ってるんだろう』って他人の反応が見たいと必死になっていた。私は褒められれば育つ子なので(会場笑い)。私は他人に恵まれてたと思う。もし最初から『才能がないね』という否定的なコメントが続けば作家を目指さなかっただろうと思う。
「『苦しみ』っていうわけでもないのですが、作家としてはまだまだ未熟、空想が描ききれていない。嘘が書ききれないというか、自分をさらけだせてないなと思う。村上龍さんの『限りなく透明に近いブルー』を最初に読んだ時に、ここまで書き進めている人で、思うままに書けてるというか、あまり制限されず、書いてしまえるような人を私はできないので尊敬する。身を削ってるかどうかは分からないが、自分にコントロールをかけず、フィルターを通さず書けてる、そこにあこがれている。私はもっと上品に書いたほうが良いかな、と猫かぶってしまうところがある。母親にこういうこと書きたいけど、と相談すると『自分の作品にフィルターをかけてる人の作品は読みたくないな』とバッサリいわれた。これからは大胆にに思っていることを書けるようにしていきたい」。
「7年ぶりの日本です。仕事では中国語とモンゴル語しか使わない環境にいます。初めて詩を書いたのは、産経新聞「朝の詩」でした。テレフォンカードが送られてきました。まぁ、原稿料というか(笑い)、非常に嬉しかった。その時の選者が新川和江さんでした。それから2年間、アルバイトが忙しくて、日本語で本格的な作品を書くことができなかった。もう一回投稿した。新川先生から手紙がきた。「あのコーナーは普通の読者が投稿するものだから、あなたの詩は専門に投稿した方がいいんじゃないか。」新川さんを通じて荒川洋治先生を紹介してもらい、檸檬屋の皆さんと知り合いました」。
「日本語で書くというきっかけになりました。そういう人たちが機会を作ってくれた。『懐情の原形ーナランへの置き手紙ー』は10年前ですが、栖原先生も仰っていましたが宮崎学さんが作ってくれた。僕にとってはちょっと硬く感じたが、いい出会いになりました。法政大学で戦後の詩とか、自分が母国語で詩を書いて、日本の詩を研究というか、日本語で表現を試みたりして、力が付いたと思う」。
「僕の母国はモンゴルです。中国語を本格的に勉強をしたのは19歳から大学時代。中国語は発音が難しい。四音が未だにわからない。僕が勤めているのは民族系出版社ですけど、モンゴル・チベット・ウイグル・カタール・朝鮮と、5つの民族の人達が一緒に勤めている。漢民族の方からみると中国語が下手らしいです。でもそれぞれの民族が中国語を使ってしゃべる時はなぜかよく分かるんですね。
それから8年間かけて日本語を勉強しました。最初は日本語学校とか、大学院とか、アルバイト先とか。しかし母国語でない言葉を学ぶには8年間は少ない。限られたものになる。それで文学を表現するというのは非常に難しい。でもそれができた時には喜びも大きいと思う。時間が少ないというのは無駄にしてはいけない。そして集中できる。「無駄に使わないように、」というのが僕が創作する上で大きい。
「日本語とモンゴル語で創作する違いは、モンゴル語で創作するときは大きな自信になる。しかし外国語だと全然違う。日本語だといつもあまり自信がない。しかし逆に真面目になる。それがぼくの10年間の創作活動に大きな影響を与えている。『僕の小さな日本』という詩を書きましたが、僕にとっての日本とはそれは日本語です。今日の午前中は自分の中の日本語をよみがえらせるために耳を傾けていました。ぼくの日本語は冬眠しているようでした」。
次に、楊天曦氏(弘前大学人文学部講師・小説『海辺来信』著者)からは学生時代にサークル活動を通して、文学創作をしていた動機、日本語の表現の難しさなどが語られた。
総合討論では、参加の7名のディスカッサントにより、日本語表現や、作家の心情的なことなどについて、質疑応答が行われた。
写真上、左から 鈴木貞夫氏(国際日本文化研究センター)、ジェフリー・アングルス氏(ウエスタン・ミシガン州大学)、伊藤守幸氏(学習院女子大学 国際文化交流学部 )、稲賀繁美氏(国際日本文化研究センター) [順不同]
写真上、左から トゥンマン武井典子氏(ヨーテボリ大学)、中川成美氏(立命館大学文学部)、細川周平氏(国際日本文化研究センター), シリンネザマフィ氏と田原氏 [順不同] | 写真下 討論風景
郭氏から「はじめてのこころみであり、心配したが、遠方からもかけつけてくださり、無事に終えることができました。さらに展開して、今後も継続して開催していきたい」とお礼の挨拶があった。(写真右)
5時30分、8時間半にわたる長時間のシンポジウムが終了した。会食会に移り、建物内のレストラン「赤おに」に移動。栖原教授をはじめ「留学生文学賞」の面々が次々と声をかけられていた。一同が集まり、栖原教授は「気楽な気持ちでやっているのに、こんな高尚な話を聞くと"やーめた"って言えなくなるな」とジョークを言えば、郭さんは「10回、20回と続けてくださいよ」と返す。留学生文学賞関係者の一人は「酔っ払いも無責任なことを言うけど、学者は酔わずに無責任なことを言うもんだ」と。
「留学生文学賞」がボランティア運営されていると聞いて、トゥンマン武井典子さんは「知らなかった。みなさんすごいですね」と感心しきり。
午後7時、ようやく長い一日が終わった小高い洛西のこの地はぐっと冷え込み、遠方の客を送り出したキャンパスはふたたび静けさにつつまれていくなか、わたしも、いい話をいっぱい聞けたな、とおもいながら京都駅に向かいました。
今回、日文研のみなさんには、このシンポジウムを成功させようというすごい情熱を感じました。サービス業にはない、ほんものの接待をいただきました。感謝です。
(フリーライター・ししろう)
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