年月日 | 出来事 | イメージ |
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1971年 | 酒場・檸檬屋主人の 住枝清高、22歳の早大生・荒川洋冶の第1詩集『娼婦論』を出版。[ 荒川洋冶氏「きっといいことがある」─ 忘れられる過去(みすず書房)より ] | |
1992年 | 中国内モンゴル自治区の詩人ボヤンヒシグ(宝音賀希格・30歳)、留学のため来日。 | |
1998年 春 | 法政大学大学院日本語文学専攻修士課程修了後も日本の詩人・荒川らと交流を希望するボヤンヒシグが滞日期間延長問題で住枝に相談。客の作家・宮崎学らの尽力で滞在延長に成功。 | |
1999年暮れ | 宮崎らに日本の印象記執筆を勧められたボヤンヒシグが日本語原稿を檸檬屋に持参。同店の客らが出版計画を立案。宮崎のインターネットWebサイトで出版資金募集を訴え、目標の約300万円を優に越える金額が集まり、水野昌彦らが編集。40日間でスピード出版。 | |
2000年 3月11日 | 読売新聞に本出版の記事掲載。 | |
2000年 4月14日 | 朝日新聞に本出版の記事掲載。 | |
2000年 4月15日 | 「ナランへの置き手紙 懐情の原形」として 英治出版より刊行 。 4月16日出版記念パーティ 。 印税を役立てて欲しい、とボヤンヒシグ。宮崎が同額を出資、荒川・住枝らが留学生を対象とした文学賞設立を企画。留学生問題の専門家・栖原曉東大教授も。「電脳キツネ目組」有志により「ボヤン賞」準備へ。選考委員長に荒川、事務局は檸檬屋。客の北村鐘がトロフィー製作、事務局長に水野。 | |
2000年 5月4日 | 毎日新聞朝刊「ひと」欄でボヤンヒシグ紹介。 | |
2000年 5月21日 | 朝日新聞読書欄に「懐情の原形」書評掲載。 | |
2000年 5月29日 | 朝日新聞に賞創設の記事掲載 | |
2000年 6月2日 | 週刊朝日(6/9号)に「ひとと本・ボヤンヒシグ」の記事掲載。 | |
2000年 6月16日 | モンゴル人歌手ウヨンタナらによるボヤン賞支援コンサート開催。 | |
2000年 6月24日 | 毎日新聞に「留学生が文学賞創設」の記事掲載。 | |
2000年 7月 | ボヤンヒシグ帰国。 | |
2000年 7月 | 文藝春秋8月号のエッセイにボヤンヒシグの「花の地図」掲載。 | |
2000年11月30日 | 第1回ボヤン賞原稿締め切り(応募59作品。中国27・韓国24・米国3・豪・ネパール・インド・香港・台湾・ブルガリアなど) | |
2000年12月16日 | ボヤン賞選考委員会が檸檬屋(西日暮里)で開かれる。《大賞 田原(TianYuan 中国・立命館大学院)の詩3編》 同25日 朝日新聞文化欄に受賞の記事 [ 選考委員名簿 ] | |
2001年1月15日 | 日本経済新聞「文化往来」でボヤンヒシグを紹介。 | |
2001年 2月19日 | 田原、毎日新聞「ひと」欄に取り上げられる。 | |
2001年 2月20日 | 第1回ボヤン賞表彰式 | |
2001年11月6日 | 日本経済新聞「広がる非営利出版」にボヤンヒシグの本の例を掲載。 | |
2002年 4月末 | 檸檬屋新宿が開店。客有志が集まり、栖原の提案で「ボヤン賞」を「留学生文学賞」と改名して隔年開催へ。一般からカンパも募集。事務局は檸檬屋から東京大学国際センター 栖原研究室に。 | |
2002年 6月12日 | 東京大学国際センターで第1回打ち合わせ会議開く。 | |
2002年 7月1日 | Webサイト立ち上げ 全国の大学、留学生組織などにポスター、募集のお知らせを郵送。 [ 選考委員名簿 ] | |
2002年12月31日 | 2002年第2回留学生文学賞(旧ボヤン賞)締め切り。 栖原が「留学生文学賞の志」を発表 | |
2003年 春 | ボヤン賞受賞者・田原が谷川俊太郎の詩集を 中国語に翻訳紹介。中国で大きな反響を呼ぶ。(「すばる」4月号に掲載) | |
2003年 2月下旬 | 2002年第2回留学生文学賞入賞者発表 (応募53作品) | |
2003年 | 荒川の書いたボヤン賞のいきさつが高校教科書に。「始める」と題し「国語・展開現代文」(H15年・桐原書店)に。 | |
2003年 4月15日 | 2002年第2回留学生文学賞表彰式 (大賞該当者無し、2作品に優秀賞) | |
2004年12月31日 | 2004年第3回留学生文学賞締め切り (応募83作品。中国59、韓国15、マレーシア、モンゴル各2、スイス、ネパール、台湾、ベトナム、ミャンマー各1) [ 選考委員名簿 ] | |
2005年 4月15日 | 2004年第3回留学生文学賞 表彰式 《大賞 黄飆(Huan Biao 中国・大阪外国語大)の「バジオ」 優秀作品賞に「キになる母」李 知蓮(イ ジヨン・韓国)「箱のなかのチリン」 ソバナ・バジュラチャリヤ (ネパール)、奨励作品賞に6編 》 2005年留学生文学賞・作品集 発行 。沖縄の市民グループ「アジアを歩く石敢當」(新川美千代)が受賞者を沖縄に招待。(以後毎年継続) | |
2005年 5月6日 | 朝日新聞東京版夕刊文化欄に紹介される。 | |
2005年 5月 | Webページにて2005年留学生文学賞・受賞作品を紹介 | |
2005年 6月22日 | 読売新聞「顔」欄に黄飆の紹介記事。 | |
2005年 9月13日 | 朝日新聞の連載記事「ニッポン人脈記」(河原理子編集委員)で賞誕生のいきさつが紹介される。 | |
2005年 9月30日 | Webサイトサーバー移転、デジハウンド社の協力でサイトデザインを一新。 | |
2006年 1月6日 | 2006年(第4回)募集要項発表 | |
2006年 1月 | 2005年作品集・資料付き再編集版(選考委員の「賞によせて」収録発行 | |
2006年 9月20日 | 2006年(第4回)留学生文学賞締め切り (応募13ヶ国・地域 計78作品) [ 選考委員名簿 ] | |
2006年 12月13日 | 東大留学生センターで2006年(第4回)留学生文学賞選考会。 《大賞 シリン・ネザマフィ(شیرین نظام مافی イラン・神戸大)の「サラム」。非漢字圏から初の受賞。奨励作品賞に4作》 | |
2007年 1月19日 | 2006年(第4回)留学生文学賞発表 ・表彰式 | |
2007年 春 | 檸檬屋で賞関係者や常連客が集まり酩酊の末、以後、賞は隔年から毎年開催に決定。 | |
2007年 4月9日 | 毎日新聞夕刊に「留学生文学賞の募集案内」の記事 | |
2007年10月 | 大賞受賞作「サラム」雑誌「世界」2007年10月・11月号に掲載。 栖原が世界10月号に「留学生文学賞のこれまでとこれから」 | |
2007年10月31日 | 2007年(第5回)留学生文学賞締め切り (応募13カ国計80作品。中国39、韓国24、マレーシア、イラン、台湾、イタリア各2,ベトナム、インドネシア、スロバキア、タイ、カナダ、ウズベキスタン、ルーマニア) | |
2008年 2月22日 | 2007年(第5回)留学生文学賞表彰式 (大賞該当者なし、奨励作品賞4作を発表) [ 選考委員名簿 ] | |
2008年 7月 | 栖原、雑誌エコノミストに「学者が斬る 留学生にやさしい地域作りを」発表 | |
2008年10月31日 | 2008年(第6回)留学生文学賞締め切り (応募は16カ国・地域114作品。 中国・韓国・台湾・タイ・シンガボール・ベトナム・マレーシア・モンゴル・スリランカ・バングラディシュ・イラン・ロシア・イタリア・ドイツ・フィンランド・コスタリカ。男性30人・女性80人。小説35・詩30・エッセイ49点) [ 選考委員名簿 ] | |
2009年 2月18日 | 2008年(第6回)留学生文学賞表彰式 《大賞 メナ・アラヤ・アーロン・エリー(コスタリカ・茨城大)の詩3編、優秀賞にキルシャンティ(スリランカ・東大)の「ヤシと雪」。奨励作品賞に4作品》 | |
2009年 4月14日 | 2006年大賞受賞者のシリンの新作「白い紙」が「第108回文學界新人賞」を受賞。文學界6月号に掲載。 | |
2009年 5月26日 | シリンの留学生文学賞受賞作「サラム」が朝日新聞・朝刊文化欄 文芸評論家 斎藤美奈子氏の「文芸時評」で、翌27日には毎日新聞・夕刊文化欄 で文芸評論家 川村 湊氏の「文芸時評」で高い評価。 | |
2009年 7月1日 | 2008年(第6回)大賞受賞者メナ・アラヤ・アーロン・エリー (コスタリカ・茨城大) の作品、「現代詩手帖」(思潮社) 7月号に掲載。 | |
2009年7月2日 | シリン・ネザマフィが芥川賞候補に選ばれ、新聞各紙に大きく報道された。 |
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